アメリカ行脚記④

 

 アメリカ行脚の旅で最後に訪れたのはサンフランシスコの郊外にあるグリーンガルチファームというお寺です。ガルチとは「峡谷」を意味します。広大な土地には農場やガーデンも兼ね備え、修行者たちは自給自足の生活をしながら禅修行に励んでいます。アイオワ州の龍門寺もそうでしたが、アメリカの修行道場では農業が修行生活を送る上で主軸になっていることが窺えます。

グリーンガルチでは毎朝、4時半に起床し坐禅を二回坐ります。坐禅が終わるとそのまま僧堂で朝のお務めが始まります。薄暗い堂内に響くheart sutraの唱和はまるで讃美歌を聞いているような深い感動を憶えました。朝食を挟んで少し休憩すると次はそれぞれの部署に分かれて作務をします。私は、ジェラルレイバーという主に朝・昼の洗い物と各部署の補佐の仕事を受け持ちました。朝ご飯と昼ご飯の後は皆が使った食器の洗い物をし、その他の時間は畑仕事やガーデニングの手伝いをしました。カリフォルニアの抜けるような青空の下で作業できるのは大変気持ちの良いものでした。

午前中の作務が終わるとティータイムがあります。この時間はただのお茶の時間ではなくて普段、疑問に思っていることをみんなでディスカッションする時間です。この日は、私が初日ということもあり他の修行者たちから矢継ぎ早に質問が飛んできました。

「何故、青色のお袈裟をつけているのか?」「色付きのお袈裟はいつからつけれるのか?」などなど。中でも一番多かったのが永平寺に関する質問でした。アメリカの方たちにとっても永平寺という修行道場が特別な場所であることが窺えます。

私が一番印象的だったのは、一人の若者がご飯を頂く時に「自分は目の前の命を頂く資格があるのかどうかわからない」と打ち明けたことです。これはまさに五観の偈の第二句目の「二つには己が徳行の全欠を忖って供に応ず(自分は果たしてこの食事を頂くに値する存在なのかよく考えることが大事である)」のことを言っています。私は彼からこのことを告げられた時、返事に窮してしまいました。何故なら私は今までそういったことを考えずに当たり前のように食事をしてきたからです。彼の方が私よりよっぽど修行していると感じました。きっと彼は毎食頂く前に五観の偈を自分の中で咀嚼しながら唱えていたのでしょう。私は彼から食事を頂く心構えを改めて学びました。

このディスカッションの時に英語のできない私の通訳を買って出てくれたのが同じ日本人のゴウさんという方です。ゴウさんは、長髪に髭面という一見ヒッピーのように見えますが仏教に対して並々ならぬ熱い思いを抱いていました。

ゴウさんはサンフランシスコの大学で学んでいる時に禅に傾倒していきました。愛車のバンでアメリカ横断を完遂した後、カルフォルニアの各所にある禅センターで修行し、グリーンガルチに流れ着きました。

しかし、ステューデントビザが取得できずまもなく日本に帰らなければいけないと言っていました。彼はもっとここで修行したいと悔しそうに呟いていました。

喉から手が出るほど日本語に飢えていた私は休日に彼を誘って以前から気になっていたことをぶつけてみました。それは、アメリカでは坐禅をメディテーションと呼んでいたことです。メディテーションとは直訳すると瞑想を意味します。しかし日本では本来、坐禅と瞑想は別物として捉えています。ゴウさんにそのことをぶつけてみると彼も前から気になっていたと言っていました。もしかしたら坐禅を英語に翻訳する場合、他に適当な言葉が見つからなかったのかもしれません。しかし、そうすることで人々は誤った解釈をする可能性があるので言語を扱う時はよくよく注意が必要だと感じました。

 

坐禅は朝と夕方に坐るんですが、ある日の夕方珍事が起きました。いつも通りに背筋を伸ばして坐っているとどこからともなく石臼で何かを曳いているような音がしてきます。「はて、誰かが料理の仕込みでもしてるのかな?」と考えますが、僧堂からキッチンは遠く離れています。そのうち、かすかに男の力んだ声が聞こえてきました。静かな堂内にはこれ以上ないと言っていいほど男の声は響き渡ります。私はその声を聞いて気づきました。すぐ下の階で、誰かが坐禅をさぼって筋トレをしていたのです。男が僧堂に聞こえているとも知らずに無我夢中で筋トレに励んでいるのを想像するとどうにも可笑しくて仕方ありません。しかし、ここで笑っては男がすたります。必死の思いで我慢して坐っていると一人の修行者が急に吹き出しました。それを契機に皆、一斉に吹き出し堂内が爆笑の渦に引き込まれました。割れんばかりの笑いが起こって一番驚いたのは、きっと筋トレをしていた本人でしょう。不謹慎ではありますが、私にとって忘れらない思い出です。

 

仏教では「小我」を問題視しています。小我とは普段、生活しているときに巻き起こる自我のことです。自我は普段、生活していると当たり前の感情として同居していますが、修行生活を送っていると自らの「自我」に否が応でも向き合わなければなりません。私は、今回のアメリカ行脚の旅でそのことを痛切に感じました。他者とは自らの鏡のような存在なのであって、他者を通して現状の自分を垣間見た気がします。

グリーンガルチ滞在中には最愛の祖母の訃報も聞きました。本来ならば、即刻帰国して祖母の葬儀に参列するのが筋ですが果たして志半ばで帰国して祖母は喜ぶだろうかと考え、涙をのんで残ることに決めました。無事に旅が円成できたのも祖母はじめ家族の支えがあったからであります。

そして何より坐禅の素晴らしさを改めて感じました。坐禅を組めば国境も人種も言語も関係なく我々は一体になっていました。これからも多くの方と一緒に坐っていきたいと思います。

まとまりに欠ける文章でしたが、最後まで読んで頂き誠に有難うございました。

「願わくは此の功徳を以って普く一切に及ぼし、我等と衆生と皆共に仏道を成ぜんことを」